大判例

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東京高等裁判所 平成2年(ツ)48号 判決

上告人

株式会社 大光

右代表者代表取締役

平石利至

右訴訟代理人弁護士

後藤峯太郎

被上告人

大成クレジット株式会社

右代表者代表取締役

松本潔幸

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする

理由

上告代理人の平成二年九月七日付上告理由書の上告理由第一点について

労働基準法が賃金の全額を労働者に支払うべきものとし(二四条一項本文)、その違反につき罰則を定めているのは、労働者が現実に賃金全額を得てその日常生活を保持できるよう確保する趣旨であるから、労働者の賃金債権を受働債権とし、使用者がその労働者に対して有する債権を自働債権として相殺することは本来許されないものであり、ただ法令に別段の定めがあるか、又はその使用者が支配する事業場の労働者の過半数で組織する労働組合あるいは労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合においてのみ、賃金の一部を控除して支払うことができるものである(同条同項但し書)。使用者による相殺が、当事者間の相殺予約に基づき、かつ、相殺の都度労働者の確認的同意を得て行われるものであっても、事実上それが労働者の自由な意思に基づくものであるかを確認することは困難な場合が多く、脱法的行為を誘発する虞れがあるので、使用者による一方的相殺と同様、本来許されないものと解すべきである。

もっとも、相殺予約が労働者の完全に自由な意思に基づいて行われたものであり、かつ、そのことが客観的事情から合理的に認められるときは、その相殺予約に基づく相殺を有効として取り扱う余地があると考えられるが、本件においては、原審でそのような事実は何ら立証されていないのであるから、上告人の主張は、結局、理由がない。

同上告理由第二点について

債務名義に基づく強制執行においては、賃金債権の差押え及び取立て又は転付が認められている。それは、差押え債権の存在及び内容が公的に確認されているからであるが、その場合においても、私法の側面での労働者の賃金債権処分の自由と債権者の利益を保護する一方、賃金は本来その全額を直接労働者に支払われるべきものであるという労働者保護の強い要請との調整を図る趣旨から、賃金債権の差押えは法令の定める限度内に制限されているのである。本件のように使用者による賃金債権との相殺をあらかじめ容認する趣旨の相殺予約は、労働者による賃金債権処分の一形態とみられるが、自働債権の存在及び内容は何らの公的確認を経たものではないばかりか、差押えの場合のような法律上の制限もなく、労働者の側としては、予約を不当に実行される虞れが大であるのにその効力を争うのは一般に容易ではなく、法的手続をとったとしてもその期間中生活保持が危うくされることは明らかであって、かくては、労働基準法二四条一項の目的は達せられないこととなる。

このように考えると、上告人主張のように、いったん差押えがあった後は差押えが認められる限度で相殺ができるようになるとか、あるいは、労働者に対して貸付金債権を有する使用者は差押債権者に対して優先的地位にあるとか解することはできないといわざるをえない。

所論は、独自の見解に基づき原判決を非難するもので、採用することができない。

なお、上告代理人の平成二年一〇月一八日付上告理由補正書は、上告理由書提出期間経過後に提出されたものであるから、これについては判断を加えない。

よって、民事訴訟法四〇一条、九五条、八九条に従い、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官藤井正雄 裁判官伊東すみ子 裁判官大藤敏)

別紙上告理由書

一 (要旨)

原判決は、労働基準法第二四条が、労働者の意思にもとづいてなされた相殺予約の実行として、労働者の経済生活に支障を及ぼさない法定差押え許容範囲の賃金部分に対し、かつ当該賃金債権が労働者の他の債権者に差押えられて労働者自身は受領できなくなった後に、労働者の確認的同意を得て行う相殺をも禁止しているものと解釈し、上告人の相殺の抗弁を排斥したものであるが、

〈第一点〉右法条は、労働者が自らの利益のためにする自主的な財産権の行使(自らよりする相殺を含む)に制約を加えることを目的とするものではないから、一面において使用者の当該債権が主として労働者の福利・更生等、労働者の利益を目的とする金融に因って生ずるものであり、他面において賃金中の相殺に供する範囲が、労働者の生活に支障を及ぼさない法定差押え許容範囲内に限られていて、その目的、内容等から、労働者の自主的選択にもとづくものであることが明白な状況下において、右金融と経済的に一体不可分のものとしてなされる相殺予約をも禁止しているものではなく、

〈第二点〉労働基準法は労働者の生活の保護を目的とするものであって、労働者の債権者相互間における債権法の競合ルールに変更を加えることはその目的に無用であること、同法二四条の法文上も「直接労働者に」対して全額払いを命じていること(直接労働者が受領できることを前提にしていること)、及び、同法条は憲法二五条にもとづく「生活権」を労働者について具体的に保障しているものであり、生活権は一身専属の超財産法的権利であることに鑑みれば、同法条は、受領者が直接労働者であって、その生活の資となるべき賃金につき全額払いを命じているものであり、賃金債権の一部が差押えられて直接労働者がこれを受領できなくなった場合に使用者が本来の権利を行使し、当該差押え部分につき民法五一一条に依拠した相殺を行うことは、何ら制約されないものというべきである。

よって、上告人の相殺の抗弁を排斥した原判決には、右の二点において判決に影響を及ぼすことが明らかな法令(民法第五〇五条第一項本文、第五一一条)の違背もしくは理由不備の違法がある。以下、右を敷衍する。

二 (上告理由第一点について)

原判決は、相殺予約とその自働債権を生ぜしめる企業内金融との経済的一体性に考及せず、相殺予約のみ切り離し、それが一般的に労働者に不利益なものと認識している如くである。

相殺予約を全て無効とすれば、一面において原判決が説示するような「強要」の弊害は除去できるが、反面において本件におけるような、労働者の福利・更生を目的とする企業内低利金融はその途をせばめられる。相殺予約は、労働者側からみれば、賃金債権の処分であるから、それを無効とすることは労働者自身の財産権を制約する意味をもつ。なるほど、歴史的にみれば、「前借金」による奴隷的拘束から労働者を解放するためには、労働者自身における賃金債権の処分権を制約する手法が必要かつ有益であったが、「由来」はいつまでも法意を固定するものではない。いかなる禁止規定も「労働者の利益に反して」という趣旨を伴うものである以上、労働事情の変化に伴い、労働者における「選択の自由」が実質的に確保されるようになった現時代において、労働者自らの財産権の行使に対する一般的制約がなお旧来のまま残存しているとする解釈は誤りであり、労働者にとって不利益である本件が、正にその典型例である。

従来の下級審判例(たとえば東京地裁昭和四五年(ワ)第六二六一号事件昭和四七年一月二七日判決。判例時報六六七号八九頁)では、相殺予約にもとづく相殺は、それが労働者の完全な自由意思によるものであるかぎり労働基準法第二四条に違反しないものとされていた。

本件原判決は右と全く相反する法解釈をとっているものであるが、その理由として説示するところは、右法条はあくまでも(労働者の生活保護のため)賃金の全額を確実に労働者に受領させることにあるのだから、相殺予約があればその適用がないとすれば「使用者が、労働者に対する事実上の力関係を背景として、労働者に相殺予約の締結を強要することにより、労働者の保護を図るという前記の法の趣旨を没却する結果となることもあり得る」というものであって、粗雑である。

けだし、原判決は、「形式的に相殺予約がありさえすればその実行としての相殺は右法条に違反しないか」という「自問」をして右のとおり説示しているに過ぎず、本件におけるように、相殺予約が労働者の福利・更生を目的とする企業内金融と不可分一体のものとして締結され、かつ、相殺範囲も労働者の生活に支障を及ぼさない法定差押え許容範囲に限定されているなど、労働者の「自主的にして冷静な選択」(完全な自由意思)にもとづくものであることが客観的、状況的に明白である場合にも、なおこれを無効とする理由の説示とはなっていないのである。

相殺予約を全て無効とすれば(まして、正に本件原判決が結論するように、使用者は民法五一一条にかかわらず相殺をもって賃金の差押え債権者に対抗できないものとすれば)労働者の福利・更生を目的とする企業内低利金融の途はせばめられるのであって、果してそのような解釈が眞に労働者の利益を護ることになるか否かは、すくなくとも原判決におけるように教条主義的にのみこれを論ずることはできない。差押えや第三者に対する質権設定も許容されないのであれば別であるが、現実にはそうでない以上、すくなくとも差押え許容部分を対象とする相殺の予約については、それを有効とする場合における労働者自身の前記利益を無視してまで、これを無効とするだけの実益はない筈である。

さらにいえば、原判決は「労働者に対する事実上の力関係を背景にして」相殺予約の締結を強要する、というが、それは損害賠償請求権を自働債権とする場合のように、自働債権の発生が契約原因ではない場合、すなわち相殺予約のみ単独で締結される場合である。労働者の福利・更生を目的とする企業内金融の場合は、当該消費貸借と相殺予約とが経済的に不可分一体となっているのであって、いま仮に相殺予約の部分は労働者に不本意なものと考えても、労働者がそれを承諾するのは、それを承諾しなければ当該融資を受けられないからに過ぎず、「相殺予約を承諾しなければ融資しない」ということを仮に「強要」と考えても、それは「労働者に対する事実上の力関係を背景」にしての、労使関係固有の強要ではなく、一般の取引に日常的な「強要」に過ぎない。

それに、当然に返済を実行する意志をもって融資を受けようとする労働者に「不本意」があるとすれば、それは相殺予約そのものに対してではなく、利率もしくは賃金中の相殺部分が過大であることに対してであって、それが適正な範囲を超えるものでないかぎり、企業内金融における相殺予約が労働者の意思・利益に反するということは、一般的には考えられない。

以上を法理的にいえば、労働基準法二四条には、労働者が自らの利益のためにする自主的な財産権の行使(自らよりする相殺を含む)をも禁止しようという法意はないのであるから、仮に原判決が説示するとおり、労使の力関係を背景として労働者の承諾を得る「他働的自由意思」にもとづく相殺予約は禁止されているとしても、労働者の「自主的選択」にもとづく相殺予約は禁止されていないものというべきである。「自由意思」か否かということで分別しようとすれば、なるほど原判決が説示するとおりであるが、「自主的な選択」であるか否かは、相殺予約の見返りに労働者が得る利益の如何と、相殺予約の内容(とくに賃金中の相殺範囲)から客観的に判別できるのであって、その如何にかかわらず相殺予約は全て禁止されると解すれば(そして、原判決のように差押え後においても相殺が許されないと解すれば)、当該訴訟の事案では労働者に不利益をもたらさないにせよ、労働者の福利・更生を目的とする企業内金融の途はせばめられ、帰するところ、労働者の財産権行使を不合理に制約したことになるのである。

三 (上告理由第二点について)

原判決は、上告人が「現実に賃金の差押えがなされた後はその差押え部分に対する相殺は労働基準法二四条に違反しない。」と主張したのに対し、「賃金債権を受働債権とする相殺が禁止されている……にもかかわらず、第三者が差押えをした途端に相殺が可能になるという根拠は存在しない」と排斥している。

しかしながら、原判決は理由の冒頭において「全額払い」の立法趣旨を「労働者に確実に受領させ、その生活に不安のないようにするため」と正しく説示しているのである。そうとすれば、必要なのは「第三者が差押えをした途端に相殺が可能となるという根拠」ではなく、「第三者が差押えをした(労働者自身が受領できなくなった)にもかかわらず、なお相殺が許されないという根拠」であろう。けだし、労働者の保護を目的とする労働法は、(原判決説示のとおり)賃金の全額を労働者に受領させるために相殺を禁ずる必要があるにしても、差押えによってどのみち労働者自身が受領できなくなって労働者の生活の資とはなり得なくなった場合に、相殺と差押えのいずれを優先させるかは、労働法の関知すべきことではない。原判決のように、差押え後もなお、相殺は許されないと結論すると、労働者の保護を目的とする労働法が、その立法目的の必要を超えて一般債権法(民法五一一条)を変更した結果となり、「特別法はその立法目的に必要な限度でしか一般法を修正しない」という基本原則に反する結果が招来されてしまうのである。

したがって、法文上でも、「直接労働者に、その全額を支払わなければならない。」として、一文をもって直接・全額払いを命じている(それぞれ独立に命じていない)のであり「労働者の生活保護」という立法目的に照らせば、右命令は「直接労働者が受領できること」を前提とする命令と解さざるを得ないのである。いいかえれば、労働者自身が受領権を失った場合には、もはやその弁済方法如何によって労働者の生活が直接的に左右されるものではないから、その受領権を失った部分については、右命令の拘束は及ばないものというべきである。

なるほど、差押え(取立命令)の一般的効果を考えれば、「労働者」は当然に「差押え債権者」と読み替え得る如くであり、原判決もそのように理解したのであろう。

しかし、それは全てを財産法の次元のみにおいて考える場合の理屈である。労働者といえども反対債権を弁済すべき義務があるのであり、これが財産法である。それにもかかわらず相殺という弁済方法が許されないのは、「労働者に確実に受領させ、その生活に不安のないようにするため」(原判決)である。すなわち、同法条は、憲法二五条にもとづく「最低生活権」を労働者について具体的に保障する規定であり、生活権は一身専属の超財産法的権利であるから、すくなくとも労働者の意思にもとづく処分ではない差押えの場合において、「直接労働者に」を「差押え債務者に」と読み替えることはできないものというべきである。

原判決の法感覚では、本来は相殺を許されなかったものが差押えがなされた途端に許されることとなるのは奇妙である如くである。

しかし、差押えは「労働者に代わって」賃金債権を取立てることを許すものであるが、それはあくまでも差押え債権者の債権の弁済のためであって、労働者の生活の資とするためではない。とすれば、労働者の「生活権」を保障するための命令が、差押えがなされた途端に拘束力を失うのは何ら奇異なことではない。一般財産法の法理を超えた次元において承認される「生活権」なるが故に使用者は我慢しなければならないのであって、どのみち「直接労働者に」支払うことができなくなって労働者の生活を直接的に左右する関係が消滅すれば、使用者はその制約から解放され、「本来の権利」を行使できるようになる方がむしろ当然である。差押え債権者が労働者の「生活権」によって本来有しない利益を取得する方がむしろ奇妙である。

債権法、就中、民法第五一一条は公平の理念から必然されたものであり、労働法はその目的に必要な限度でしか一般法を変更しない。にもかかわらず、原判決がその結論をもって自ら異としないのは、労働基準法二四条の法理的性格に対する考及を欠いて財産権と生活権とを漫然混同し、法文を読むに粗なるが故である。

以上をもって上告理由とします。

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